「お金はどうでもいい」

お金はどうでもいいって言うと、「じゃあ、くれよ。」って言う人がいる。

何かしらの誤解が生じているのは確かだと思うんだけど、自分にはどういう理解・心理からくる発言なのか分からない。ただ、なんかモヤっとした気持ちになった。

だから、自分の言う「お金はどうでもいい」の意味を明確にしておこうと思った。結構誤解を招くのかもしれないし。

 

 

「お金はどうでもいい」って、別にお金の価値を否定しているわけじゃない。無条件に誰にでもあげてもいいっていうことじゃないんだ。

逆に、くれるっていうんだったらほしいと思うし(自発的にくれなんて言わないし、そんな気も起らないけどね)、お金は大切だと思うよ。人それぞれの価値を抽象して、交換の媒介になっているから、持ってたら大体何でも苦労せずに手に入るし便利だ。

でも、そのお金を手に入れるのは労力がかかる。今の社会の仕組みが合っている人にはそうでないのかもしれないけど、合わない人にとっては、資本家でもない限り、自分の時間とか個性とかを犠牲にして手に入れるものだって感覚があるんじゃないかな。

で、自分が今手にしているお金っていうのは、それが最適水準かは別にして、自分にとって大切なものを犠牲にして手にしたお金なんだよね。自分にとって大切なものと交換したものがお金だから、当然無価値なはずがない。

だから、誰にでもあげていいものじゃないし、自分の効用を最大化する使い方はしたいわけだ。そこはお金がほしい人と共通していると思う。

 

けれど、お金が増えていくにつれて、お金の価値が下がっていくんだ。

自分が生きていくのに必要な分のお金までは、お金の価値=労力って関係が成立すると思うんだけど、そこを超えた瞬間からお金の価値が下がっていく。

だから、「お金はどうでもいい」って言うのは、自分がとりあえず生きていくのに必要な以上のお金を手に入れるために、(少なくとも追加で)労力をかけてまで手に入れようとは思わないって意味で、自分にとっては他に大切にしたいものがあるから、それに比べたらどうでもいいって意味なんだ。無条件にあげていいものじゃないんだよ。

 

「お金はどうでもいい」って言う人は、大体こんな意味で使ってるんじゃないかな?

くれって言ってきた人にあげていいものとは思ってないと思うよ。

自分の中に引っ掛かりを持つということ

世間的に、物分かりが良い方が好まれると思う。これがいつからの傾向なのか分からないけれど、効率の良さが好まれるようになったことと無関係ではないと考えるのが自然だろうか。

 

何でも器用にこなし、色んなタイプの人とそつなく付き合う。

でも、僕はそういう方向って好きじゃないかもしれない。自分がない、深みがないという感じがしてしまうから。

そう感じるのは、そういうタイプの人を見ていて、自分の中での落とし込みがないと思うことがあるからだと思う。

頭で分かり、身体で分かる。これはいい。でも、自分の中に引っかかりがない。これが良いとは思えない。

何というか心が無抵抗に情報を受け入れてしまうのが、自分がないという気がして嫌だ。直覚しないこと、これが大切なんだという気がしている。

頭や身体で分かっても直覚しない人、つまり、物分かりが悪い人の方がより深い理解にたどり着くと思う。自分の中に引っかかりがあれば、考え続けるからだ。

周りからしたら、厄介だし面倒くさいのかもしれないけれど、僕はそういう人の方が好きだ。話していて勉強になるし、自分が分かっていなかったことに気づくきっかけになるからだ。

 

個人的には、最終的に無駄なんかじゃないと思っているんだけど、世間はそうも思わないようで、息苦しいなぁと感じる今日この頃。そんな急いで何処へ行こうとしているのか。。

情報の奔流と自分の人生

情報を人生の選択に活かすって難しい。

これは、量的な問題と質的な問題に大別できると思う。

 

まず、量的な問題について。

情報を多く持っているというのは、それだけ選択肢を多く想定できる可能性がある点で有用だ。情報の入手自体は、インターネットがあるから昔に比べたら、だいぶ情報格差はなくなったと言えると思う(インターネットにもない独自の情報っていうのはあるなって職業柄思うけど)。

とは言え、多すぎてもいけない。集めるのに時間がかかるし、集めた情報から全ての可能性を考慮するのは、まぁキツい。人間の脳って大量の情報を同時に処理できるようにはできていないと思う。しかも、集めた情報を全て信頼するわけにもいかないし。

 

質的な問題もある。

要は、どれだけ信頼できて、かつ、選択結果から得られる満足感が大きいかだ。

日常生活を振り返ってみると、信頼できるかどうかは、誰からどのように入手したかで変わってくるように思う。権威的存在(組織、人、みんなそうしてる)から得た情報は、特に何もせずに信頼するところがあるし、自分から取りに行った(と思っている)情報は信頼しやすい。逆に、そうじゃない場合、発信者の立場、情報の中身の論理的整合生、合理性、類似者の発信情報との整合生、反対情報との比較などを行って(情報の網羅生にも留意しつつ)検証することになるから大変な作業になる。

それと、選択結果から得られる満足感が大きい場合っていうのは、知り過ぎず知らな過ぎず自分が最善の判断をしたって思ってるときだろうから、偶然と主体性の産物なんだろうな。

 

信頼でき、選択結果から得られる満足感が高い情報が適度にある状態が効率性、効果性から見て理想だけど(なんて当たり前のことなんだ!)、その実現のためにはどうしたらいいのかが問題だ。

 

これは、どういうコミュニティに所属しているかなんだろうな。

僕が思うに、歴史があり、時代の変化に敏感で、人数がそこそこなコミュニティがきっとベストだ。

この条件に合うコミュニティは、時間という淘汰圧に耐えた情報(信頼でき、効果も高い)と、鮮度が高くユニークな情報(キャズム越えの時の先行者利益を得られる)が蓄積されてると思うからだ。

 

そんなコミュニティが見つかって、かつ、自分と親和性が高ければ最高なんだけどな。難しいのかな。

 

おしまい

 

自分というもの

今回は自分の強みについて書いていきたいと思う。自分がどういう人間か知る試みのひとつだ。

最近は色々と診断テストがあるけれど、僕は『ストレングス・ファインダー』というものを使った。

3年ほど前、就活のために一度『ストレングス・ファインダー1.0』をやってみたんだけど、最近『ストレングス・ファインダー2.0』という新版が発売されていたのを知り、思うところがあったので、もう一度やってみたって感じだ。

日本語版だと、『さあ、才能(自分)に目覚めよう』というタイトルなので、宗教か疑似科学っぽくて、ちょっと店頭とかでは買いにくいけど、今はネットで買えるから便利だね。

才能は平均からの乖離だから、きれいごとではなく、誰にでもあるものだと思う。生物が種として生存するために、生存戦略として種の中でバラつきを持たせているって話はよく聞く話だし(個として生存するなら平均的である方がいいんだろうけど)、何も一番でなければ才能ではないってことじゃないわけだから。

調査の規模は明確ではないけれど、従業員エンゲージメントの調査を1,000万人以上を対象として行っていることや、この本が累計50万部を突破していることから、十分そうって感じだ。

才能なんてものをどうやって測るんだ?って疑問もあるけど、本を読んでみると、その人が好きとか楽しいって感じることを才能と定義して(他の人より得意だからだろうという前提がある?それともそれ自体が才能?)、それを100問以上の質問として聞いているのかな。同じ才能に関することなのかなと思う質問もあるので、この質問にこう答えた人はこういう傾向に何点という心理学的データベースを持っていて、それに照らし合わせて判定しているように感じた。

まぁ、従業員エンゲージメントの調査で、1,000万人中700万人が、最も得意とすることに専念する機会が不十分と回答していることから、少しでも不満があると自分に才能があることでも最も得意なことじゃないって考えてしまうとも予想できるので(同じ才能を持っていてその人が自分より優れた実績を残している場合など)、どうやって才能を測るんだ?という疑問と合わせて、多少割り引いて「最終的に判断するのは自分、診断結果はあくまで指針」くらいの感覚でよさそうだ。

 

では本題。ナンバーリングが強みの順位を表している。

■就活時

①自我

意義ある人間と思われたい。周りの人間もそうであってほしい。仕事を単なる業務ではなく、自分の生き方そのものにしたい。
②目標志向

目標を常に意識し、それに向かって進むことを良しとし、行動を振るいにかける。

③未来志向

未来に希望を抱き、自分も周りもそれによって鼓舞する。

④最上志向

平均以上でありたい。だから得意なこと以外はやりたくないし、周囲の人間も強みを磨いていれば良い。弱点を克服するなんてナンセンス。

⑤学習欲

学ぶのが好き。何も知らない状態から能力を備 えた状態に、着実で計画的なプロセスを経て移行することで活気づけられる。最初にいくつかの事実に接することでぞくぞくし、早い段階で学んだことを復誦し練習する努力をし、スキルを習得するにつれ自信が強まるというプロセスに心惹かれる。

 

■直近

①内省

考えることが好き。だからひとりの時間を楽しむ。自分に質問し、自分で回答する。何に集中しているかは、他の強みによる。

②慎重さ

世の中が予測できない場所であると考え、用心深く、油断しない。危険の可能性について、否定するのではなく、自分の振るいにかけて減らしていく。

③着想

複雑に見える表面下に、なぜ物事はそうなっているのかを説明する的確で簡潔な考え方を発見すると、うれしくなる。新しい見方、常識をひっくり返すことに魅力を感じる。

④個別化

個人個人の違い(性格、動機、考え方、関係の築き方)に着目する。人を一般化、類型化したくない。人それぞれに合わせた行動ができる。

⑤収集心

知りたがり屋。必要性という実利を期待しているというよりも、情報を蓄積したい。色々なものに興味を惹かれるから集める。可能性を捨てたくない。可能性のあるあらゆる用途を考えているので、物を捨てることに不安を覚える。

 

うーん(笑)。一応、才能ってできる限り個人の中で不変なものを特定しようとしているらしいんだけど、ひとつも被っていない。

これを見て思うのは、直近のものが自分に近いだろうなってことだ。就活の時のは、こうであってほしいとか、こうなりたいみたいな心理状態が如実に表れている。④、⑤は多少その毛があるかなとは思うけれども、①~③はどなたですか?って感じだ。診断結果が出たときも違和感があった。納得感がないというか。。変な欲に囚われていたんだな。自分じゃない誰かになろうとしていた。だから苦しかった。他人になろうとするのは苦しいことなんだ(日本の就職は嘘つき大会というのも間違ってないかも。自分にも会社にも嘘をつくんだから。)。

衣食住が他国に比べれば遥かに充実している日本という国においては、多くの苦しみがここから生まれているんじゃなかろうか。。

逆に、直近の診断結果は自分っぽいなと納得感がある。心理状態が変わるようなイベントはないし、仕事にも慣れてきて、自然な心理状態に近いからかな。これをひとつの指針にしていこうと思える。

 

要は、「足るを知る」ことが大切なんだな。自分を卑下するのではなく、他人じゃない、自分であろうとすること。

もともと、世の権力者を諫めるための言葉であったという話もあるけれど、昔の権力者は(相対的には)物質的に満たされていただろうし、ましてや(もしかすると過去の権力者よりも)物質的に満たされつつある現代においては、権力者でなくとも内面にこそ目を向けるべきって捉える方が自然じゃないか?

世に蔓延るキラキラした個性の流行イメージなんか気にせず、自分なりに考え、他人になりすまそうとしない、精神の独自性を手に入れた方が幸せになれるって実感があるよ。

 

とまぁ、『ストレングス・ファインダー』の診断結果の過去と現在の自分のギャップを見て、こんなことを考えた。それだけでも、この本を買った甲斐はあったと思う(しかし、中古では診断が受けられない、再度テストを受けることもできないというのは、確実に著者に印税が入る仕組みにもなっているな)。

ただ、その時の自分の心理状態の影響は大きいようだから、できる限り自然な心理状態の時に受ける方がいいね。

 あと、全部読む必要はなさそうだから、最初に前書きだけ読んで、診断テストを受けた後、自分の強みの箇所と行動指針、加えて相性の良い特質も書いてあるので、その部分だけを読めばいいかな。

 

おしまい

認知症と自己同一性、日本と自分の未来

今リアルタイムで娘が撮る父の壮絶介護というドキュメンタリー番組を見ているのだけど、なんていう映像だと思う(実家に帰省しており、テレビがあるので、他人事ではないと思い、見ている。)

悲しみ、切なさ、不安、葛藤、愛情などの様々な感情が入り混じった現実がある。そして、最後には愛情が父の覚悟へと繋がっていく。

その様が、映像を通して俯瞰的に、まざまざと残されている。

何かを感じずには居られない、そんな容赦のない重みがある。

 

よく聞く話として、認知症患者のいうことを否定してはいけない、というものがある。

これは、僕自身も経験があるが、そうは言っても家族からは受け入れ難い現実である。頭では分かっていても、心が拒絶してしまう。希望にすがってしまうのだ。

けれども、認知症の母(妻)が、耳の遠い父(夫)に話が伝わらず、「みんながバカにする。何も分からん、どんどんバカになっていくんじゃ。」と叫んでいる映像を見て、そういうことかと納得した。

つまり、認知症患者は症状の進行とともに、健常者の世界からズレていくのだ。しかも、いきなり記憶が混濁していくのではなく、徐々に進行するために、自分がズレていく自覚がある。それ故に、生きている感覚を共有できず、日常に慣れ親しんだ物さえ減っていく。自分という人格が壊れていることが分かってしまう。今日の自分が昨日の自分と連続しているという自己同一性の感覚がなくなっていき、自己の存在が希薄になる。

要するに、自分が自分であると感覚は、周りの人間との感情の共有によって、あるいは、それらと結びついた物を確認することによって、保つことができるってことだ。

これは、混乱する母親を見て娘が口にした「父に構ってほしいんだと思う」という言葉と、その夫に布団から手を伸ばす妻の様子からも感じとれる。これは、自分の存在を確認しようとする気持ちの発露なんだと。

 

今回のケースでは、96歳の父が自分が何とかしなければと、自発的に家事などもやり出している。

映像を見る限りでは、最初は、悲しみや不安などの感情と希望が混ざり、葛藤が生まれていたが、これまでの暮らしの中で愛情を育めていたために、絶望の後、受容するという覚悟に繋がったのだと思う。

しかし、この父の立場に夢見る若者がいた場合、面倒を見るべきと言えるのか。それは、その若者の存在を蔑ろにしており、正しいとはとても言えないように思う。何らかの事情で愛情がなかった場合は?

確か浄土真宗か何かの教えだったと思うが、願いは同時に呪いでもあるってことになる(例えば、受験を控えた子供の合格を願うことは、別の親の子供の不合格を願う呪いでもある)。

 

これが日本の現実なんだ、と途轍もないものを見せつけられた。

人間が理性を得た代わりに、生まれた悩みの一つなんだと思う。

 

介護が呪いにならない未来は、どうやって作っていけるのか。日本と自分の正念場だ。

テレビのない生活

僕は一人暮らしを始めて以来、テレビを持っていない。

場所を取りたくないし、生活に必要だと思わなかったからだ。

インターネット環境があれば必要な情報は手に入るし、余暇も本とインターネットがあれば十分だ。

 

実際、テレビのない生活を続けてきて、特に必要ないな、と感じている。出張先のホテルで見ることがあるくらいだな。

 

テレビって、受動的でテレビのペースに合わせるから、なんか生きてる実感も湧きにくいと思う。周りでテレビの話題も出ないから、特に。

要は、社会全体として、テレビが持つ他人との感情の共有効果が弱くなっているんだろうな。昭和の時代は、サラリーマンという働き方が普及してきて、そういう家庭では手軽な娯楽としてテレビは選択しやすいし、職場なんかで話題にもしやすい。だからこそ、テレビが世論に与える影響は大きかったろうと想像するし、政治的にも効果的に使われてたんだろうなと思う。そんな過程の中で、マスメディアとしての自分たちの立ち位置も、勘違いしてしまったんじゃないかという気がするよ。

それもあってテレビに特に価値を見出せないんだな。

 

最近NHKの委託業者の人が来たけど、僕はテレビも持っていないし、スマホiPhoneである旨を回答したら、驚きながらも「じゃあその旨登録しておきます。」と帰っていった。

NHKは横暴だという声がネット上ではあるけれど、僕の実感としてはそんなことないなって感じだ。スマホについても、流石にiPhoneのように地デジチューナーが内蔵されていないものは契約の対象外と考えているっぽかった。PCも然り。

 

というわけで、特に損なこともないし、テレビのない生活は快適だ。

 

おしまい

 

専門性が叫ばれる世の中で

2~3か月前にふと考えたことを思い出したので、記録しておく。

タイトルにあるとおり、それは専門性についてだ。

 

専門性が強調されている背景には、①世界の競争状態が高まっていること(イノベーションの必要性、育てる余裕なし)、②個人の知識レベルが平均的には上昇していること(より高いレベルの知識を強調する)、③日本的文化の後退(家族的価値観の崩壊)があるんじゃないかと思っている。

まぁここは本題ではないので省くとして、専門性を身につけると市場価値が上がり、自由度の高い安定したキャリアを歩んでいけるというような話があると思う。

これを愚直に信じると、危険なんじゃないかというのが本題だ。

 

専門性を身につけると市場価値が上がるというのは本当だと思うし、高い市場価値を背景にした自由度の高さと安定も、まぁ嘘ではないと思う。

一方で、リスク分散という考え方もある。投資などでも、よくポートフォリオ理論というものを見聞きする。一つの銘柄だけでなく、性質の異なる複数の銘柄を保有すべきというヤツだ。最近ブームになっている(しようとしている?)副業なんかもこの部類に入るんじゃないだろうか。

この考え方を導入すると、専門性を愚直に信じるのは危険という考えが浮かんでくる(英語でいうProfessionの語源となったラテン語のprofessは、神の前で信仰を告白するというニュアンスなので、美しくはあるけれど)。

つまり、専門性にも旬というものがあり、旬であるうちは市場価値にも高く恩恵を享受できるけれども、旬を過ぎた場合には恐ろしい結末が待っている可能性がある。

だから、専門性を身につければ明るい未来が待っていると愚直に信じるのではなく、懐疑する必要がある。

そのうえで、自分のライフスタイルとか価値観を見直して、行動していく。それが重要ということ。

 

正直そんなにお金もいらないし、仕事もあんまり…というのであれば、そこそこの業務遂行能力を複数身につけることがリスク分散になるし、生活にかかるコストも把握できているのであれば、安心した暮らしができるのではないかと思う。

逆に仕事を中心とした価値観を持ち、専門性を高めて高い報酬と達成感を得たいのであれば、柔軟な専門性か柔軟な思考を持って、時代に合わせて変化していく覚悟が必要になると思う(時代の変化に合わせて、自分の過去の経験を捨てるということも十分ありうる)。

 

これ以外にも道はあるだろうし、後は自分の能力と要相談かな。

 

幸せになるなら、自分と向き合って価値観を知ることが始めの一歩ってことで。

 

おしまい