戦略といふもの

最近、戦略というものに対して、僕の場合、若干ネガティブな意味を感じていることに気づいた。これまでは、何となく良いイメージが優勢だったのだけれど。。

 

戦略とは…

wikipedia

一般的には特定の目標を達成するために、長期的視野と複合思考で力や資源を総合的に運用する技術・科学である。

■ブリタニカ国際大百科事典

最も広義には敵対的な政治集団間の闘争の技術をいう。

日本大百科全書

戦術の上位概念として、一般に師団やそれ以上の大戦闘単位の軍事行動を計画・組織・遂行するための通則をさす。

日本国語大辞典

ある目的を達成するために大局的に事を運ぶ方策。特に、政治闘争、企業競争などの長期的な策略。

 

こうして見ても、人間を見る観察眼も含めた事象の分析能力に加えて、対象を手玉に取る理論を構築する論理的・合理的思考力がなければ、優れた戦略を立てることは難しい、したがって賢いという印象を受ける。また、世に出回る情報というのも、特にビジネス、地政学最近ではライフスタイルや人生設計などにおいても、その重要性が叫ばれていることから、優れた戦略は知性の象徴のようにも感じられる。

 

なのにどうしてか、僕の中でネガティブな印象がある。

どこに、その要素があるのか、自分が書いた文章を眺めていると、何となく、その輪郭が見えてきた気がする。

 

どうも本物じゃないという気がしているのだ。

戦略を立てる上で必要な人間を見る目、それは人の欲望について良く理解していなければ、得難いものだと思う。要は、単なる欲から出てきたものは本物じゃないと感じている。

折角理性を持って人間として生まれたのだから、単なる欲からくるのではなしに、我欲を克服し、物に向き合い没頭し(すなわち、自分に向き合い没頭し)、自然に立ち現れてくるものが本物だと思いたい、そういう気持ちがある。

書いていて気づいたが、これは仏教でいうところの「小我」が感じられて、ネガティブに感じたんだな。大学時代に楽だという理由でとった宗教学の授業で唯一覚えたもの。

 

ここまで書いてきて、不思議と戦略に対するネガティブなイメージが薄れてきた。

というのも、人間の欲を理解している=戦略家に欲があるとはならないことに気づいたからだ(仏教で悟りを拓き解脱する過程でも欲望を理解することはきっと必然だろうし、、)。我欲を克服した戦略家というのもありうる話だ。世間で出回る戦略に付いて回るイメージと戦略そのものとは切り離さねば。。。

 

欲に捉われず、自分と向き合っていたい!

 

以上