認知症と自己同一性、日本と自分の未来

今リアルタイムで娘が撮る父の壮絶介護というドキュメンタリー番組を見ているのだけど、なんていう映像だと思う(実家に帰省しており、テレビがあるので、他人事ではないと思い、見ている。)

悲しみ、切なさ、不安、葛藤、愛情などの様々な感情が入り混じった現実がある。そして、最後には愛情が父の覚悟へと繋がっていく。

その様が、映像を通して俯瞰的に、まざまざと残されている。

何かを感じずには居られない、そんな容赦のない重みがある。

 

よく聞く話として、認知症患者のいうことを否定してはいけない、というものがある。

これは、僕自身も経験があるが、そうは言っても家族からは受け入れ難い現実である。頭では分かっていても、心が拒絶してしまう。希望にすがってしまうのだ。

けれども、認知症の母(妻)が、耳の遠い父(夫)に話が伝わらず、「みんながバカにする。何も分からん、どんどんバカになっていくんじゃ。」と叫んでいる映像を見て、そういうことかと納得した。

つまり、認知症患者は症状の進行とともに、健常者の世界からズレていくのだ。しかも、いきなり記憶が混濁していくのではなく、徐々に進行するために、自分がズレていく自覚がある。それ故に、生きている感覚を共有できず、日常に慣れ親しんだ物さえ減っていく。自分という人格が壊れていることが分かってしまう。今日の自分が昨日の自分と連続しているという自己同一性の感覚がなくなっていき、自己の存在が希薄になる。

要するに、自分が自分であると感覚は、周りの人間との感情の共有によって、あるいは、それらと結びついた物を確認することによって、保つことができるってことだ。

これは、混乱する母親を見て娘が口にした「父に構ってほしいんだと思う」という言葉と、その夫に布団から手を伸ばす妻の様子からも感じとれる。これは、自分の存在を確認しようとする気持ちの発露なんだと。

 

今回のケースでは、96歳の父が自分が何とかしなければと、自発的に家事などもやり出している。

映像を見る限りでは、最初は、悲しみや不安などの感情と希望が混ざり、葛藤が生まれていたが、これまでの暮らしの中で愛情を育めていたために、絶望の後、受容するという覚悟に繋がったのだと思う。

しかし、この父の立場に夢見る若者がいた場合、面倒を見るべきと言えるのか。それは、その若者の存在を蔑ろにしており、正しいとはとても言えないように思う。何らかの事情で愛情がなかった場合は?

確か浄土真宗か何かの教えだったと思うが、願いは同時に呪いでもあるってことになる(例えば、受験を控えた子供の合格を願うことは、別の親の子供の不合格を願う呪いでもある)。

 

これが日本の現実なんだ、と途轍もないものを見せつけられた。

人間が理性を得た代わりに、生まれた悩みの一つなんだと思う。

 

介護が呪いにならない未来は、どうやって作っていけるのか。日本と自分の正念場だ。