先人の教え、自分の考え、その境界

先人の教えと自分の考え、それを分ける境界線はどこにあるんだろう?

また、面倒な疑問が自分の中に出てきた。。

 

よく自分の考えといったものが強調されるけれど、今の自分を作っているのは過去に出会った人とか過去の体験とかであって、それって結局、言葉でしょう。

そして、言葉って思考の賜物だ。思考するために生まれたものだ。そうすると、言葉は先人の教えでできているってことだ。

そしたら、僕たちは言葉の奴隷じゃない?先人の教えの範囲内でしか考えられないってことじゃない?全て、過去の人が考えたことの延長じゃない?

どうやって、自分の考えだって言うんだ?

 

うーん、上手く分けられているか疑問だけど、

①実際は既に考えられたものだけど本人はそれに気づいていない合理的な一つの考え

②新しい考え(だけど本人はそれを意識さえしていない)

③不合理だけど自分ではそれに気づいていない考え

って感じに自分の考えだと主張するパターンがあるとして、日常的な範囲では取りあえず言うことがメインで、実際どうであるかは大した問題じゃない。大体、自分も周囲の人間も既にあるものだと知らずに、その人の考えだとするんだろうな。

 

 

ここでひとつ閃いた。

上で書いた「よく自分の考えといったものが強調されるけれど、今の自分を作っているのは過去に出会った人とか過去の体験とかであって、それって結局、言葉でしょう。」って部分。ここに、言葉だけでなく、感情も加えたら、、

 

言葉と感情の組合せ。感情それ自体は、人類の間で大きく違いはあるような気もしないけど(だって、大きく違ったらコミュニケーション不能だ)、個人のレベルで見たとき感情の起こりが違う。そのきっかけが違うとすれば、同じ言葉でも触れたときの反応が違う。それを呼び水にして、言葉を組み合わせて、眠っていた別の意味を呼び出してやる。

 

頭がぐるぐるしてきた。。

そもそも言葉を作った先人たちは、その言葉に含まれていた別の意味に気づいていない。そのまま言葉は蓄積されていく。これらを、後の人間が感情の起こりを契機にして、別の意味を引き出す(場合によっては、新しい言葉が生まれる)。これが、自分の考えだ。

でも、実際のところどうなのか、それは個人では判断不能だな、きっと(人類の脳がインターネットでつながればあるいは。。)。

 

~まとめ~

①先人の教えと自分の考えの境界は、然るべき言葉の組合せが揃っていることとそれを引き出す感情の起こりがあるか否か。

②現実的には個人で判断不能

③こんなこと考える実用性皆無!

 

以上